暴言を取り戻せ

はてなブログさんが掲げる今週のお題は「雨の日も、晴れの日も。」だ。

 

雨の日も、晴れの日も。人は死ぬ。

これ以外何も思い浮かばない。はてなブログを通してこの世の真理に触れて貰いたい。

そういう意味が込められているのだろうか。

夏に向けてはてなブログさんもおかしな方向にアクセルを踏んだ感じがする。

 

まぁはてなブログさんのお題が眠たくなるような奴なのはいつもの事なので今回も華麗にスルーして本題に入ろうと思う。

 

お前ら、武器は研いでいるか?

当然法治国家ジャパンにおいてガチもんの刃を研ぎ、いつ何時でも不届き者を成敗できるように懐にドスを忍ばせると言う行為は厳禁である。

しかし、星の王子様後進国であるジパンクは目に見えない本当に大事なもの、言葉と言うオレ達のチャカを見逃しがちである。

最近なんやかや話題になったような気もするが、話題になっただけで別に「じゃあこうしよう」とはならないだろうからノーカンだ。

 

我々暴言厨は先祖代々受け継がれている暴言と言う名の名刀を愛してやまず、その切り心地を試してはニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべ「今日も俺の暴言の湯加減は最高だったな」とウットリするのが日課であるが、近ごろその試し切りが難しい環境になりがちである。

ご先祖様から受け継いだ技と刃を我々の代で腐らせるわけには行かないが、刃を腐食させようとしている連中はポジティブな奴らと言う所が厄介だ。

 

こちとら紀元前から続く陰キャの一族である。暴言中には愛が分からぬ。

大地を這い、影と踊って暮らしてきた。

けれども陽キャと言う言葉には人一倍敏感であった。

なぜなら陽キャはその溢れ出る行動力と持ち前の心の強さで常に陰キャからあらゆる物を奪い去って来たからだ。

 

目を伏せ、隅に蹲りながらも、我々はボソボソと暴言を吐きつづける事によって心身のバランスを取ってきた。

しかし時が立てば世界も代わり、ポジティブに身を包んだ陽キャ共は平気な顔で「おれってば~陰キャだから~」と鼻を高くしながら語り、影の世界へと土足でズカズカと上り込むようになり、陰キャ陰キャで「我々は市民権を得た」とあらぬ勘違いをする者が出てくるようになり、身の程知らずにも陽の世界に飛び出ては顔面のパーツを中央に寄せながら「やっぱり陰キャには辛いでござるぅ」と陽キャと接する恐怖を紛らわせる為に自分のバックには5万人もの陰キャがついていると主張すると言う恥知らずな行いを繰り返している。

 

結果どうなったか。

暴言が、腐った。

 

ポジティブの前に我々自慢の見えざる武器は通用しない。

それが分かっていたから我々は陰口を叩き続けて来た。

本人に叩き付けたら刃が折れると分かっていたから、影で素振りを繰り返すと言う超絶遠距離攻撃をし続ける事によってなんとか己の形を保ってきていたのだ。

何より我々は心が弱い。とても弱い。

陽キャにおはようと言われたから死と言う「おは死」から一日は始まる。

それでもこの刃だけは穢させないわっ!と必死に作り笑いにも成りきれていない引き攣った面と「うぇっへっふはっおはっふへ…へへへ」と言う不定形言語を駆使し本物の武器を隠してきた。

 

だが、前途の通り時代の変化によって、我々が必死に守ってきた武器はポジティブな奴らに見つかってしまったのだ。

陽の物に触れられた言葉はたちどころに浄化され、もはや人を腐す事が出来なくなってしまったのだ。

綺麗な川に我々は住む事は出来ないと言うのに。

 

それでも「死ね」と「黙れ」の5文字さえ使う事が出来れば我々は生きていける筈だった。

伝家の宝刀、最後の懐刀であった。

しかしそれすらも陽の物の前には無力。「お前もうwwwwほんとwwww死ねよwww」は褒め言葉であるし、吐き捨てるような「死ね」はツンデレの照れ隠し、つまり愛情表現である。

もう我々は人に死を望む事は出来ない。

当然「もう黙れよwww」は陽キャ同士のじゃれ合いであり、「黙れっ!」と言う決死の叫びはツンデレの照れ隠し、つまり愛情表現である。

もう我々は人の口を閉じさせる事は出来ない。

 

この世の全ては愛情表現に通じる…。

「ムリ」と言う拒絶は尊いの同義語にされ、「死」は喜びの最上級表現になった。

「バカ」は元から天才と紙一重であったが、紙一枚程度の境界線、陽キャにとっては無いも同然なので、当然「天才と同じ意味」である。

 

いつだって陽キャに奪われ続ける人生を歩んできた陰キャも、当然抵抗はしてきた。

激しい銃撃戦の末に逆に「天才」を暴言枠に持ってくると言う偉業を成し遂げた、と思っていたのだが未だに「オマエ天才じゃん」が褒め言葉としても使われているのでどちらかと言うと「使わせて頂いている」が正解であり、陽キャのおこぼれを啜って生きている形だ。

 

もはや我々暴言厨のプライドはズタズタである。

それもこれも全ては「期待の裏返し」等とほざいて裏返す必要のない物をなぜか裏返しまくった愚かな先人達のせいでは無いかと思っている。

確かに昔はろくな娯楽もなかっただろうから、シャブを打つか酢豚にパイナップルを入れると言うナイスジョークを繰り出すか期待を裏返すかぐらいしか人生の楽しみが無かったかも知れない。

しかしだからと言って悪戯に期待を裏返し暴言にポジティブな意味を持たされてはこちらの商売あがったりと言う話なのだ。なんてことをしてくれたのか。

期待はそのまま渡せ。暴言と言う人の畑を荒らすなよと過去に戻って説教したい所だが、説教をすると奴らは「期待を裏返されている…」と勘違いするだろうからやはり我々に勝ち目はない。

クソが(そのままの意味)

死ね(愛情表現ではない)

 

この様に注釈をしっかりとつけても「愛情表現じゃないんだからねっ」に自動変換されるシステムにこの世界はなってしまった。

もはや我々の生きていける世界はどこにもない。

 

そもそも見えない物の解釈を奴らの自由にしたのが間違いだった。

あれだけ人間とAIに自由を与えてはならねぇと言ったのに「暴言は相手が暴言と思ったら暴言なんです」と言う幅の広すぎる自由を採用したせいで当然「賞賛は相手が賞賛と受け取ったら賞賛」も適用されるようになってしまった。

 

DVを日課とする最低奴に「何かあるとすぐ暴力を振うゴリラ」と言葉を投げた所で「地球のがん細胞と呼ばれる人間より遥かに上等なゴリラと呼んで貰えた」と思われ目の前でドラミングをされ我々は恐怖に慄くしか出来ないのである。

「化粧してもブス」と言うドストレートな暴言も「この人は私の為を思って言ってくれてるのね…期待に応えないと!!…次はお肌をセラミックにしてみよ」と思われてしまい、やはり我々は己の無力に立ち尽くすと言う結果に終わる。

 

しかし「相手が暴言と思ったら暴言」と言う自由はそれはそれで行使されまくっている為「今日はいい天気だね」と世間話を持ちかけたら「私と会う時に雨が降ってないなんておかしいとでも言いたい訳!!?」と相手を傷つけてしまう可能性もある。

全然そんなつもりは無くても相手がそう思ってしまったのだからそうなのである。

傷つけたい相手に傷一つつける事が出来ず、逆にどうでもいい相手や傷つけたくない相手に誤射を繰り返す暴言厨などいい所が一つも無い。

そんな風に自信を失っている所に陽キャから「そんな事ないよ!誰でもいい所はあるって!」と優しく暴言を吐かれ「まぁお前は例外だけどなって言いたいんだよな!!お前は!!」とキレる羽目になるのも我々の誇りが奪われてしまったから、ひいては陽の者との距離が近くなってしまったからだ。

 

それでも「オマエのかあちゃん出べそ」等と相手では無くその近辺にいる人を狙う事によって巻き込みダメージを狙うと言う手段もあるが、一流の暗殺者はターゲットの心臓を音も無く一突きにして殺すものだ。

相手の心臓が狙えないからと刃を捨て爆弾で無関係な人間を巻き込む等と言うプライドの無いマネは出来ない。

誇りを奪われたからと言って自ら捨てていい訳ではないのだ。

 

今すぐに誇りを取り戻そうと言いたい所だが、陽の者から何かを奪うと言うのは田嶋陽子に男を褒めさせるより難しい。

ここは一つ新しい武器を我々の手で錬成するべきではないか?

陽の者との略奪戦争を子孫まで残すわけには行かないし、子孫が心置きなく震える美しき刃ボーゲンを残してあげるのが我々に出来る数少ない善行である。

作ったそばから奪われるかも知れないが、それはそれ、その時は泣きながら「死ね!」と叫ぼう。

愛情表現だと思われても叫ばなければならない「死ね」が世の中にはあるのだ。